だいぶ前に Twitter で「詩人のための量子力学という本がとてもよい」というのを見たので、僕もいつか読もうと思ってずっと積んでいました。
最近ちょっとずつ読み始めていたのだけど、「腰を据えてじっくり読むか」と思っていたのに「なにこれ面白すぎて止まらない!」という感じで一気に読み終えてしまいました。そしてその内容を理解していくプロセスが自分の人生のある出来事と本質的に同じであることに気づいた、というのがこの記事のテーマです。量子論の紹介とかはもちろんやりません。
「詩人のための量子力学」は本当に優しい(易しい)本なので、技術に詳しくないとか理系じゃないとかそんなことは気にせずぜひ読んでほしいなと思います。「僕らの世界がこんなに謎に満ちた奇怪なものであるのだ」ということをイヤというほど知ることができます。
僕らの「常識」は単なる「経験則」でしかない
仰向けでスマホを見ているとき、寝落ちすると自分の顔の上に落ちてくることは誰でも知っています。これは僕らにとっての「常識」であり、実際でいってもこの世界では紛れもない事実でしょう。
このように、本書はまず僕らがよく知る物理学を「古典物理学」と称し、ガリレオやニュートンの時代から始まった "感覚的に理解しやすいもの" をわかりやすく説明するところから始まります。
これらはなぜ「常識」なのでしょうか。
簡単です。僕らは日々の生活で数え切れないほどこれらの事象を目撃していて、それ以外の結果を見たことすらないからです。まあ実際には「人間の DNA に深く刻み込まれた知識体もある」とかあるかもしれませんが、いずれにしてもこれはひとまとめにして常識は経験によってつくられていると言えると思います。
また、体験したことがなくても「感覚的に理解できそうなもの」であればかろうじて常識と受け取ることもできます。
ガリレオがピサの斜塔から重さの異なる二つの鉄球を落とした実験は有名です。
※実際には鉄球じゃないとか、そもそも本当はこんな実験はやってなかったとか諸説はあるみたいです
「重いものほど速く落ちていきそう」という僕らの感覚的な印象とは裏腹に、二つの物体は同時に着地します。鳥の羽と国語辞典であったとしてもです。
もちろん、これは現実世界での結果ではありません。空気抵抗に代表されるような「実験のノイズ」によって僕らがよく知る結果側へと近づいてしまうからですね。
これは「実際に目撃したことはないけどそういうこともあるかもしれないな~」くらいのギリギリ許容できそうな範囲のわかりやすい例です。
もしくは、義務教育の過程で「これはそういうものです」と教えられていたから許容度が上がっているというのもあるかもしれません。これはどちらかというとこれから話すほうの件に近いのですが。
ここまではまだ何もおかしいことはなく、いたってノーマルな世界です。安心して物理学を楽しむことができます。
量子力学の気持ち悪さを受け入れなければならない
前もって書いておきますが、僕は量子力学に詳しいわけでも物理学を専攻していたわけでもないです。量子力学の実際の中身について説明したい意図は、この記事の範疇でいえば全くないことをご理解ください。
ニュートンの運動方程式以降、19世紀までの物理学は非常に順調だったらしいです。すべてが常識的に理解できる理論のみで構築されていて、ある程度ミクロな世界(この時代では原子くらい)からマクロな世界(太陽系の天体運動くらい)までのだいたいの物理現象を正しく説明できていたからです。
ところが、いくつか本当に細かいところで小さな矛盾が観測されていました。矛盾の実例の紹介は割愛しますが、量子論というものが登場せざるを得なくなった話として最もわかりやすい(そして気持ち悪い)例として「二重スリット実験」を紹介します。
「光は波でもあり粒子でもある」ということを説明する話であるとともに(この時点で十分に常軌を逸してはいる)、ある1つの光子がどちらのスリットを通ったかを何らかの方法で確認するまでは常に2つのスリットを通過しているように見えていて、どちらを通過したのかが判定できるようになった瞬間に片方のスリットしか通過しなくなることが証明されます。
しかも「観測」というのは、人間が目視したり検査機で記録したりするだけに留まりません。どんな方法であろうが、この宇宙に「どちらのスリットを通過したかがわかるなんらかの情報」が生まれた時点で光子は1つのルートしか通過しなくなるのです。
僕の理解力と要約力ではこの実験の衝撃を伝えるのはこれが限界なので、本当に実際に読んでほしい。僕は読んだとき鳥肌が立ちました。
おそらくこの文章だけを読んでも全くもって意味が理解できないと思いますが、それは僕の説明が下手であるからです。でも面白いことに、書籍を読んで正しい説明を見るとなぜかもっと意味がわからなくなるでしょう。
これは量子が持つ「薄気味悪さ」のほんの一部に過ぎません。本書では、この意味不明さを数式をなるべく使わずに、しかも段階的に理解できるようによく順序立てて説明されています。
ちなみに「薄気味悪さ」というワードは、アインシュタインが「薄気味悪い遠隔作用」と呼んだ話で有名です。アインシュタインは歴史に名を残す天才なわけですが、量子力学を受け入れられなかった物理学者の代表でもあったようです。彼はあの手この手で「量子論の矛盾を突き論破する方法」を考え実行したようなのですが、どれも大成功には至らなかったよう。「薄気味悪い遠隔作用」もそのひとつで、二重スリット実験と同じくらい気持ち悪い話です。興味があればググってみてください。
この本を読んで唯一残念だったことがあるとするなら、アインシュタインの「イメージの格」がずいぶんと下がってしまったことです。
厳格な物理学者であり超天才だったからこそ、この「感覚的に受け入れられないものを物理学に取り込む」ということがどうしても許せなかったのだと思うのですが、そのせいで「頭が固かった人」みたいになってしまっているのならなんか本当に悲しいです(別に誰かがそう言っているわけではないと思うのだけど、事実僕が一瞬でもそういう印象を持ってしまったという意味で)。
ちなみに量子論と相対性理論(特殊/一般)は矛盾しないことがわかっているらしく、これらは問題なく同居します。量子論の構築自体にも相対性理論は絶対の信頼のもとに使われていたようなので、間違いなく彼の偉業はいまも評価されているはずと思います。
本書は説明がうますぎるので説得力が高いというのを抜きにしたとしても、読み終わるとなぜか「そっか、そういうものもあるんだな~」という気分になっています。これは半ば思考を放棄しているだけとも捉えられるんですが、「いまの量子論はほぼすべてが科学的に証明されている」と言われてしまうともう太刀打ちできないので仕方がないのです(ここでいう「科学的に証明されている」とは、僕らが感覚的に理解できる手法を組み合わせたもので、結果が誰の目にも自明であるものをメインとしているようです)。
「そんなものが存在するわけない」「あり得ない」と思わざるを得ないものに出会うと、何か超常的なものに頼りたくなってしまいます。実際、多くの宗教的要素の起源がこのようなところにあるわけで、科学と宗教は対称的なものでありながらも最も密接なつながりを持つものの代表例ではないでしょうか。
超常的なもの、ねえ…。これをどうしても信じないといけないのか…。
あれ?この感じ、前にもあったような…
僕は仕方なくオカルト要素を受け入れました
ガラリと話を変えますが、僕はオカルトを信じています。
いや、正確に言うなら「オカルト(的要素のうちある部分的なところを一定のルールに基づいた話の場合のみ)信じています」です。
この件の概要は大きくわけると二段階で構成されています:
- 知人から「どう考えても霊の存在を認めないと筋が通らない説得力がありすぎる話」を聞くという経験があった(1年~ほど前)
- ネット上で見かけたあるオカルト話が、上記で僕が認めることになった話と理論的に類似していて同じ筋の通り方をしているというのを二度も目撃してしまった
知人からの話については、身バレ防止及び関係者のプライバシー考慮も含めて書くのはやめました。おそらく話の内容を書くかどうかによって本章の説得力が大きく変わることもないなと思ったのもあります(結局読者のみなさんからすると「僕」という信頼できない存在を経由することになるので信ぴょう性は乏しくなる)。
この時点で僕は「どうやら何か人智を超えた存在というのは否定できないようだ」と認めることになったのですが、その後この考え方を増強しやがる件に二度も出くわしており、もうこの説を覆せなくなりました。
このふたつめの件で特に怖いところは、全く関係のないネット上の別の話の中に理論的な共通点があるということであり、しかもそれが自分が信じざるを得なくなっていた前段の話(知人からの話)とも矛盾していないというところです。
「ネット上の投稿など鵜呑みにするべきではない」という指摘は、
- 偶然の一致
- 特定の同じ人物が巧妙に話題を複数用意している
など現実的にはほぼゼロと考えてもよい可能性のものを排除すれば無効化できます。
まあみなさんを説得したいわけではなくて、「とにかく僕はこれでもう自分を論破できなくなった」というだけのことです。僕だっていきなりこの記事を読まされて「信じますか?」と言われたって「はぁ?」って感じです。これほど自分自身で体験しないと信じられないものはないでしょう。
さっき「オカルトは部分的にだけ信じています」と書きましたが、実際のところもうその範囲すら逸脱してきています。
だって「これまであり得ないと思っていたことを認めた」経験があるのに、どうして「まだ聞いたことがない話だからあり得ない」とまだ言えるのでしょうか。
この件を皮切りに、古今東西の多くのホラー系の話題を真面目に読む/聞くようになりました。時間と場所が遠くなればなるほど話には尾ヒレが付くものですが、おそらくその根本では本当に「なにか」が起きたのだろう、と最近は考えるようになりました。
自分のこの半ば愚かとも言えるかもしれないマインドチェンジを後押しするいくつかの理論もあって、例えば
- 文明の交流が絶対に起き得なかった遥か昔から、世界各地で「霊」などにまつわる現象の報告があること(くだらない嘘をつく必要性がゼロに近いのに内容の類似性が高いということによる信ぴょう性の上昇)
- いま現在、僕たちの共通認識の中にオカルトという立派な話題が確立されていること(本当にすべてがしょうもない嘘っぱちであるなら今なおこのジャンルが有力な地位を築いている可能性は低いだろうという確率論的な話)
などがあります。
正直これらを認めたことでわりとスッキリしたところも多く、例えば「事故物件を選択肢に入れるべきか」などは秒で判断をくだせるようになりました。玄関には大きい鏡を置かないし、墓地の隣にも住みません。
ここだけ見ると、本当にただのオカルトマニアだ…。
量子力学に理論があるように、オカルトにも理論がある
オカルトは仕方なく(本当に仕方なく!!)認めることとなりましたが、なんでもかんでもその概念の存在を許しているわけではありません。
量子は「観測するまで2つの状態を重ね合わせて存在できる」という全くもって意味不明な性質がありますが、ここには確固たるルールがあり、数式で表すことが可能で、この「理論」があるからこそ僕たちはありとあらゆる量子力学を応用した技術を享受できているのです。
僕も驚いたのだけど、既に量子力学が応用されている事例は数え切れないほどあります。ぶっちゃけ言うならその辺にある電子機器はもはや「すべて」がそうであると言えるし、化学も土台に量子論が据え置かれています(元素周期表がいまの形に収まっていく過程を量子論の発展として紹介している章があるのですがめちゃ面白かったです)。
僕は量子力学と聞くと「量子コンピュータ」→「まだ実用化されていないもの」のイメージしか持てなかったのですが、そんなことはなくて既に人類に不可欠なものであった、ということでした。
そして、オカルトにもルールがありました。
「ありました」ってなんやねんというところだと思うんですが、少なくとも自分が見聞きした範囲ではそうです。霊には良いヤツと悪いヤツがいて、そいつらは塩を嫌がり、部屋の風通しと密接な関係があって、悪い霊がいると部屋の空気が重くなり、除霊スキルを持つ人は本当にいる、などです。
これらは僕らが経験的に知っている常識ではないだけで、一定のルールが存在しているようにしか思えません。
"感覚的に" 理解できない量子論、そして "科学的に説明できない" ものの代表例として扱われるオカルト話。
これらのいったい何が違うというのでしょうか。
…という投げかけで終わりたいと思います。ちょっと味のある終わり方を狙ったように見せかけて、なんかこれ以上書くと胡散臭くなりそうでやめることにしたというのが本当のところ。
毎度書いてますが、今回は特に読んでくれた人の感想を聞いてみたい。他の人だとどんな受け取り方をしているものなのか、なかなか集合知は存在していないはずなので面白そう。
おわりに
自分はかなり理屈屋であることを自覚していて、今回は逆に(?)その認識を強めることとなりました。
何を言いたいか想像がついていると思いますが、理屈で説明できないものを受容する過程がめちゃくちゃ理屈っぽいんですよね。
この頭を持てていたことが不幸中の幸いだったなとすごく思っていて、こんな例で出すのは本当に嫌なのだけど、アインシュタインの二の舞にならなくてよかったなと思うなど。
(言うまでもなく、量子論の確からしさが証明されて数十年経過している上での僕とアインシュタインを比べるのはおこがましいにも程はあります)
オカルトに関する話は自分の人生の中でも特にスペシャルなものだったのでどこかで発信してみたかったのだけど、話題が話題だけに「あいつヤバいヤツだったのか」で終わってしまいそうで手をこまねいていました。今回はいい絡め方ができる相棒こと量子論くんがいてくれて助かった形です。
ぶっちゃけ「似たような経験をしたことがあるからなんとなく霊は信じてるよ」みたいな人、多かったりしないのかな?どうせ信じてもらえないからみんな話さないだけで。オカルトが理論的に、そして大々的に語られる時代が来ると面白そう!
最後は「詩人のための量子力学」をおすすめして終わります。
文章自体がウィットとユーモアに富んだものなので(この著者さんはそれが持ち味の人らしい)、単なる読み物としても本当に面白いです。
ちなみにこの本を読んでまた色々宇宙に興味が出てきていまこんなことに…
ではおわり。
この記事へのコメント
そもそもオカルトってなによ?と疑問に思ったので考えてみた結果,
「人にとって,納得できない現象がオカルトであり納得できる現象が科学」
なんじゃないか?という結論にたどり着いた.
オカルトを信じる信じないというより,全知の存在でない限りオカルトは存在するってのが僕の見解.
人はよく分からないものに基本的に恐怖を感じる生物なので,その原因に「霊」という名前をつけることで恐怖を緩和しようとしたんじゃないかな〜みたいなことを思った.オカルトマニアみたいな恐怖を好奇心が上回った例もあるが...
その結論は僕も納得できます。
結局「なにに名前をつけているか」の差でしかないのかもしれませんね。
怖がる対象として「霊」にしたというのも本当にその通りな気がします。
オカルト関連の節に少しだけ触れておくと、諸々の類似性については
- 人類共通の(生存本能的あるいは共通の必然経路的)な観念、感じ方によるもの(例として死への恐怖)
- 追求への現実的制約や興味の限り(とにかく危ういから近づかないでおこう、説明のための納得手段)
- 夢に近い無意識の思考の恐怖(そしてその伝播可能性と共通性)
で出現を説明できたりもするような気がしますね
いかに途絶していようとも必要性と必然性に応じて類似の概念が発明されるのが大抵です
むろんお挙げになられた論証は数あるうちから取り出した一般論的一例にすぎず、他にも多々あるということは理解しているつもりですが
「なにか」が起きたというのはやはり正しいでしょう、そういうのは歴史の領域になりますが
(現象は何らかの作用によってしか起こらず、一握りは人間の作為や錯誤によるものかもしれませんが、人々にとって身近さや深刻度が高ければ高いほど反復や因果の実証によって確信は高まってゆきますし、それ(作為錯誤)にすら背景が存在し得ます)
ポエムっぽく言うなら、怪異が実際には怪異でなかろうと災いをもたらさぬとは限らぬように、危うきには下手に近寄らずが一番という
その中には現代科学もまだ到達していない本物の怪異があるのやも...そしてそれをも取り込むのが科学あるべくなのでしょうが(反証を試みるのも解明手段の一つ)
コメントありがとうございます。
前半については自分もほとんど同意です。このあたり徹底的に言語化しようとすると何を言いたいのかわからなくだろうということで大幅にカットした都合もありますが、考えはかなり近いです。
「反証を試みるのも解明手段のひとつ」というのはいいですね。これぞ科学の為せる技かもしれません!